ジャーナリストの下村健一さんが、障害者の職場を訪問し、インタビュー。
働く障害者と、雇用する担当者、実際の現場の様子を取材しました。
日本理化学工業株式会社は昭和12(1937)年創業のチョーク製造会社。粉の出ない「ダストレスチョーク」でチョークのトップシェアを誇る一方、昭和35(1960)年から知的障害者の雇用を開始。現在、社員73名のうち知的障害者が53名(重度31名)と、障害者雇用率は70%に達する。平成17(2005)年には企業フィランソロピー大賞特別賞〔社会共生賞〕を受賞。平成21(2009)年10月には鳩山由紀夫首相が川崎工場に視察に訪れた。
テレビや書籍などでも数多く紹介される。大山泰弘会長は障害者雇用に取り組む中小企業の経営者にとってカリスマ的存在。平成20(2008)年には長男の大山隆久さんが後継者として社長に就任した。
多数雇用を可能にしたさまざまな工夫や、今後の展開についておふたりにお話を伺った。
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働く障害者 インタビュー動画
雇用担当者 インタビュー記事
お話を伺った方
大山泰弘(おおやま・やすひろ)さん
日本理化学工業 取締役会長
昭和7(1932)年生まれ、77歳。日本理化学工業の創業者の父親の跡を継ぐべく同社に入社。昭和49(1974)年、社長に就任。平成20(2008)年より現職。障害者雇用のためにさまざまな努力を行った経営者として各方面から賞賛されている。著書『働く幸せ 仕事でいちばん大切なこと』。昭和56(1981)年 国際障害者最終年に内閣総理大臣より表彰される。平成15(2003)年 厚生労働大臣表彰、日本障害者雇用促進協会会長より表彰される。平成16(2004)年 春の叙勲、瑞宝単光章を受賞。平成21(2009)年 渋沢栄一賞を受賞。大山隆久(おおやま・たかひさ)さん
日本理化学工業 代表取締役社長大山泰弘さんの長男。平成5年、同社に入社。平成20(2008)年より3代目社長に就任。
「私たちが面倒みますから」の社員の言葉で採用を決意
大山泰弘会長は大学を卒業後の昭和31(1956)年、創業者である父の後を継ぐべく日本理化学工業に入社。入社3年目の昭和34(1959)年に初めて2人の知的障害者の実習をうけ、これが障害者雇用の出発点となった。
下村 障害者雇用のきっかけは、養護学校の先生が訪ねてこられたことだそうですね。
会長 はい。卒業予定の2人の女の子を採用してくれないかというお願いでした。私はその子たちを一生幸せにしてあげられるかどうか自信がなく、2度お断りしたんです。しかし3回目に来られた時に、その先生がこう言ったんです。「採用はあきらめます。でも、就職できないとこの子たちはすぐに施設に入ることになります。施設に入ったら一生働くことを知らずに終わってしまう。せめて何日か、働く体験だけでもさせてくれませんか」と。その言葉が胸にグッときたんです。
下村 養護学校の先生はなぜ理化学工業を訪ねてこられたのでしょう。
会長 後で聞いた話ですが、職員室を見渡してみて一番簡単につくれると思ったのがチョークで、その包装を見たら日本理化学工業と書いてあった。仕事がやさしい職場でないと、この子たちには勤まらないと思われたようです。
下村 実習の後、2人の採用を決意されたのはどうしてですか?
会長 2週間の実習の最後の日にひとりの社員が私のところにやってきて、「こんなに一生懸命やってくれるんだから、あの子たちを雇ってあげてください。私たちが面倒をみますから」というんです。これは現場の人たちみんなの意見だと。その言葉を聞いて、養護学校卒業と同時にこの2人を採用しました。
知的障害者に導かれてここまで来た
その後も、日本理化学工業は毎年、健常者と同じ最低賃金を守りながら知的障害者を雇用。昭和50年(1975)年には全国初となる心身障害者多数雇用モデル工場を川崎市に開設した。昭和42(1967)年には北海道美唄市の誘致に応じ、同様の工場を開設。いずれも製造ラインのほぼ100%を知的障害者で稼働できるよう、工程にさまざまな工夫が凝らされている。
下村 実習の後、2人の採用を決意されたのはどうしてですか?
会長 2週間の実習の最後の日にひとりの社員が私のところにやってきて、「こんなに一生懸命やってくれるんだから、あの子たちを雇ってあげてください。私たちが面倒をみますから」というんです。これは現場の人たちみんなの意見だと。その言葉を聞いて、養護学校卒業と同時にこの2人を採用しました。
知的障害者に導かれてここまで来た
下村 もし最初の2人を雇用していなかったら、日本理化学工業は今頃どんな会社になっていたでしょう。
会長 小さな町工場で一生終わっていたでしょうね。障害者雇用がなければ、川崎への工場移転もなかったわけですから。むしろ知的障害者に導かれて、企業としてここまで成長してこれたのだと思います。
下村 「知的障害者を雇用するのは大変だな」と思ったことはありませんか。
会長 最初は「2人ぐらいならいいかな」と思っていたんですが、毎年養護学校の卒業生を受け入れているうちに、「このままズルズル雇用していったら、会社はどうなっちゃうだろう」と不安を感じたこともありました。
下村 にもかかわらず、採用を続けてきた理由は何だったのですか?
会長 ある法要の席で出会った禅宗のお坊さんの言葉がずっと念頭にあったんです。人間の究極の幸せは「人に愛されること、人にほめられること、人の役に立つこと、人から必要とされること」の4つだと。だから障害者の彼らも、働きたいと思う。彼らが働くことで幸せになれるなら、会社は利益を出すとともに社員に幸せを提供する場でなければならない、そう思ったんです。
数字ではなく色で把握-理解力にあった作業の改善
下村 多数雇用を維持するために、乗り越えなければならなかった壁もあったのでは?
会長 はい。ひとつは人間関係で、人数が増えていくうちに、障害者と同じ賃金の健常者のパートさんから不満の声が上がるなど、軋轢も生まれてきました。
下村 どうやって乗り越えてこられたのですか?
会長 障害者の気持ちを考えると、いまさら最低賃金の適用除外を申請することなどできません。そこでパートさんに「お世話手当て」を出すことにしました。たいした額ではありませんでしたが、逆に「もっと親切にしなくては」と気持ちを切り替えてくれました(日本理化学工業では、現在に至るまで一度も最低賃金の適用除外を申請したことはない)。
下村 仕事の工程を工夫するうえでもご苦労があったのでは?
会長 はい。例えば彼らはチョークの材料を混合するとき、それぞれの粉の重さを数字で把握することが難しい。そこで、それぞれの粉が入っている容器の蓋の色と重りを同じ色と、適正な重量になるようあらかじめ調節した専用の重りを同じ色にして、赤い蓋の容器に入っている粉を量る時には赤い重りを乗せ、天秤の針が真ん中に止まったらOKと指導したら、きちんとできるようになりました。
下村 その“ひらめき”はどこから得られたのですか?
会長 交通信号がヒントになりました。最初のうち、彼らの親御さんが通勤の送り迎えしていますが、1カ月位たつとひとりで通えるようになります。駅の改札を出てから会社まで、往来の激しい十字路を渡って、交通事故に遇うこともなくちゃんとたどり着くんです。字は読めなくても彼らは赤信号はわかる。色は区別できる。「だったら色を使って仕事の段取りを組んだらどうだろう」とひらめいたんです。他の工程も彼らの理解力に合わせて検討してみると、いくつもの改善点が見つかりました。
材料を練る時間を計る時には、時計の針を読むかわりに砂時計を使う。2桁以上の数を数えるには、連続した数字を書いたカードを用意して、10個に達するごとにめくっていく。日本工業規格(JIS)に適合するチョークの太さ10mm以上11mm以下をチェックするために、10mmと11mmの溝にはめて確認するなど、効率的に作業が行えるような工夫をいくつも積み重ねてきた。
下村 そうしたアイデアはすべて会長が考えられたのですか?
会長 いやいや、従業員がみんな一緒になって考えてくれました。こうして作業内容を理解しやすくしたことで、彼らは仕事に集中してくれるようになり、生産性がとても上がりました。
会社のなかにある“職人文化力”を活用する
下村 健常者の社員にとって、知的障害者の人に作業を教えるのは大きな負担なのではありませんか?
会長 手取り足取り見本を見せて「大丈夫、わかった?」と聞くと、知的障害者はみんな「うん、わかりました」と返事をします。でもそれで安心してはダメ。「本当にわかったかどうか、彼らの行動を見て判断しなさい」と指導しています。もし曖昧な動きをしていたら、もう一度呼んで、よりやさしく、違った方法で教える。結果においてその仕事ができるようにすることが重要で、「わかりやすく説明し、伝えられないのは、彼らの能力じゃなくて、指示するほうの能力がないことの証」と言っています。
下村 健常者の社員にとっては、すごいハードトレーニングですね。
会長 障害者に働いてもらうのが職員(日本理化学工業では、通常、健常者の社員を「職員」と呼んでいる)たちの役割ですから。
下村 これから障害者雇用を始めようとする会社の場合、日本理化学工業のような多数雇用ならではの環境をいきなり導入することはできません。うまく軌道に乗せていくためにはどうすればいいでしょう。
会長 ベテラン社員が考えながら、個々の障害者に対応するのがいいと思います。以前、ジャパンタイムスの女性記者が当社を取材に来た時に、工場で色を活用したり砂時計を使ったりしているのを見て、「私たちの国では考えられない方法だ」と驚いていました。自分の国ではマニュアルを見せて「こういう仕事はできますか?」と聞いてからスタートする。ところが日本では、手取り足取り教えて、できなければ違う方法を考えて面倒をみる。これは、日本に職人文化があるから可能なんですね、と言っていました。
下村 なるほど。職人文化ですか。
会長 日本企業の持っている職人文化力を活用していく。そうすれば指導も、いろいろな工夫も進んでいくのではないかと思います。
「5S推進委員」「班長」に昇格するのが彼らの目標
下村 日本理化学工業を見て驚くのは、知的障害者の人たちがミーティングで積極的に改善点などを提案していることです。
会長 はい。自分の職場環境をよくするために、グループで月に1回話し合いをしています。その積み重ねのなかで、知的障害者からも「こうするともっといいと思います」という発言が出てくる。最初は何も言えなかった子も、だんだん自分から意見を言うようになっていく。もっと会社をよくしたいという思いを強く持っているから、成長してくるんですね。
下村 成長を促すために、どんな工夫をされていますか?
会長 昇格システムを取り入れています。年に1回、評価の機会を設けて、条件を満たすと判断された社員を「一般社員」から「5S推進委員」に、さらに「班長」へと昇格させていくんです。
5S推進委員
5S推進委員の5Sとは、整理(Seiri)・整頓(Seiton)・清掃(Seisou)・清潔( Seiketsu)・躾(Shitsuke)の総称。この5つの活動(5S活動)のお手本となる社員が5S推進委員として任命され、そのなかでとくに優秀な人が班長に指名される。川崎工場では32人の知的障害者のうち5S推進委員が19人、班長が4人いる。
下村 昇格の際にはとくにどこを評価されるのですか?
会長 ポイントは「仕事の能力」と「リーダーシップ」。より重視しているのはリーダーシップで、自分のわがままを抑え、常に仲間のことを気にかけて、困っている人がいれば助けてあげられるようになることです。
より能力が発揮できるような事業や商品にチャレンジ
下村 社長になられる時、会長が確立したものを引き継いでいくのは大変だな、という思いはありませんでしたか?
社長 生易しいことではないとは思っていますが、会社を継続し、少しでもいい会社にしたいと考えています。その点、会長がまだ元気でいてくれるので心強いですね。
下村 今後の日本理化学工業の課題は何だとお考えですか?
社長 チョークは景気に左右されずにきた商品なので、70年もやってこられた面があります。ただ、これからはチョークだけに頼っていくのは非常に難しいですし、障害者たちがより能力を発揮できるような事業や商品にどんどんチャレンジしていかなければいけません。土台はもうつくってもらっているので、それをいかに少しずつ広げていけるか。
下村 障害者の人たちが新しいことを覚えるのは大変だと思いますが、それでもチャレンジをしていくことが必要だと?
社長 まったく新しいチャレンジではありませんが、10年前に比べても、チョーク関連の商品が横展開で増え、それに伴って新しい仕事も増えてきました。その過程で気づいたのは、いろいろな仕事があると、彼らもより成長するということです。適度に新しいチャンレンジがあるのは逆にいいのではないかと思います。
下村 今、雇用情勢は非常に厳しいですが、障害者雇用にとってもやはり逆風ですか?
社長 健常者でもずいぶん就職が難しい状況ですから、逆風ですね。うちも含めて一般企業に勤めている障害者は、一回外に出てしまうと再就職できる可能性は極端に低くなっている。ですから、頑張って利益を出して会社を継続し、彼らを絶対に路頭に迷わせちゃいけない。それが僕らの役目だと思っています。
下村 その厳しい環境のなかでも、高い障害者雇用率は守り続けていく決意ですか。
社長 もちろん知的障害者の雇用率70%以上、重度の人たちをそのなかの5割、6割というのはずっと維持していきたい。でも数字に縛られるつもりはありません。時代の流れのなかで、仮に規模が大きくなったり、新たな展開があった時に、健常者の割合が少し増えることもあるでしょう。ただ、絶対にうちのような会社はなきゃいけないと思うので、障害者の高い雇用率を維持しつつ、さらにたくましい企業に成長させたいとは思っています。
下村 最後に会長にお伺いしたいのですが、今後、社長との役割分担は?
会長 社長には日本理化学の経営に集中して、障害者雇用を前提に会社の発展を考えてくれと。私は、こういう企業がたくさんできるような環境づくりの面で、もうしばらく頑張らなければいけないと思っています。
下村健一の編集後記
鳩山首相の所信表明演説(09年10月26日)でも紹介され、今でこそ障害者雇用の分野でカリスマ的存在の大山泰弘会長ですが、元々は障害者雇用には全く関心が無かったと言います。これは、非常に注目すべきポイントです。
今もなかなか自社での障害者雇用に踏み切れずにいる多くの雇用主の方々と、大山さんとは、別の種類の人間ではありません! 経営者になった当初から高い問題意識に目覚めていたわけでも、身内に障害者がいて日頃から関心を抱いていたわけでもなく、インタビューにある通り、初めは「卒業生を雇って欲しい」と相談に来た養護学校の先生に「とんでもないですよ」と断っていた人なのです。ということは、今の“カリスマ大山”と“雇えぬ雇用主”とを分けているのは、《初めの1歩》を踏み出したか否かだけなのです。
1歩を踏み出していなかったら…もし養護学校から最初の2人を雇用していなかったら、「日本理化学工業」は小さな町工場で一生終わっていただろう―――という大山会長の述懐は、前回の取材後記の「障害者雇用が企業の浮揚力になる」ことを示した気球のイラストの一番右の状態を、正に裏打ちしています。
そして、「日本理化学工業」をこのような会社に変えた“化学変化”(文字通り!)の一番最初の一瞬は、ある日、養護学校の先生が「何か、うちの卒業生にも出来る仕事は無いものかなぁ」と思って職員室を見渡して、ふと黒板のチョークに目が止まった瞬間でした。
今回のインタビューの中で、これは私が一番しびれたエピソードです。実は、プロフィールでも紹介されている「SOS!100円ダイヤル」という在宅募金システムを私が思いついた最初の一瞬も、これとそっくりのものでした。ある日「何か、家にいながら募金が出来る道具は無いものかなぁ」と思って、「水道ではダメ…掃除機ではダメ…下駄箱ではダメ…」と室内を見渡していった時に、ふと電話機に目が止まり、「あ、ダイヤルQ2(当時社会問題化していた自動課金システム)を使えば、お金が集められる!」と気付いたのです。
新しい事に踏み出す時のきっかけって、かくもさり気なく身近に潜んでいるものなんですよね。職員室のチョークだったり、居間の電話機だったり。貴方の職場にも、きっと《初めの1歩》は隠れていて、発見されるのをじっと待っているに違いありません。
無論、《初めの1歩》の後には、それを確かなものにする第2、第3歩が必要です。大山さん達には、歩みを進める2つの基本姿勢があったように感じられます。
1つは、「数字はわからなくても、信号の色はわかる」ことから作業工程を改善したという、あの逸話。そこから今に至るまで続く数々の工程改良に貫かれているのは、「何が出来ないか」ではなく「何が出来るか」に着目する、という姿勢です。「自分のような者でも、こうやって働く場所を提供してくれる会長さんに恩を感じている」―――今回の主人公の柳沢誠さんは、そんな風に謙虚に語りつつ、仕事の説明となると一転して胸を張り、班長として自信満々に話してくれました。その口ぶりには、《「出来る」ということへの誇り、喜び》が滲み出ていました。
そしてもう1つの基本姿勢は、《ぶれない》ということ。パートさん達との軋轢をはじめ、幾多の困難に直面しても、大山さんは障害者雇用の路線は間違っていないと信じて堅持し続けました。その結果が、現在の「日本理化学工業」の発展です。きれい事をただ唱えているだけの人は、壁に当たるとすぐ挫けます。企業は、儲かってなんぼです。この会社は、そこもしっかと見据え、ぶれずに努力を積み上げて、知的障害者70%の集団が、ちゃんと儲けているのです。 「働くとは、人のために動くことだ」と大山さんは著書『働く幸せ』の中で書かれていますが、それになぞらえて言うならば、「儲けは、信ずる者にもたらされる」ということでしょうか。